萩尾望都氏と竹宮恵子氏の確執(?)暴露本を読んだ
一度きりの大泉の話
大泉サロンや萩尾望都氏と竹宮恵子氏とのトラブルについて、なーんにも知らなかった私ですが、レビューが賛否両論でどえらいことになっていて、気になったので読みました。
そして片方(萩尾氏)の言い分だけで判断するのはフェアではないと思い、竹宮氏の自伝も読みました。
率直な私の感想。
…………大御所作家同士でも、女子グループ特有の人間関係トラブルってあるのか😓
これにつきます。
「少年の名はジルベール」では竹宮氏が、まだデビューしたばかりの萩尾氏の才能を褒めていました。そして順調に作品が雑誌掲載されていることと、担当編集者Y氏から将来を高く買われていることに嫉妬し、自律神経失調症になってしまいます。 そして、「距離を置きたい」と萩尾氏に告げた、とだけ書かれています。
さきにこれだけ読むと、いつまでも――50年すぎても和解しようとしない、萩尾氏のほうが意固地に見えても不思議ではないです。けれど、その4年後に出版された「一度きりの大泉の話」を読めば、なぜ萩尾氏が沈黙を続けていたのかを明かされます。
もし私がまだ若かったら、アマゾンレビューのように「昔のことをいつまでも許せないほうが大人げない」と思っていたかもしれません。相手は精神的に病んでいたし、スランプだったのだし、何より20代前半の若者だったのだから過ちは仕方がない、と。
けれど、あれこれ人間関係のいざこざを経験すると、「無理なものは無理。諦めることもときには必要なのでは」と思うことが多くなります。
そもそも盗作疑惑をふっかけたのが竹宮氏サイドなのに、その謝罪がまったくないのが少し残念でした。ご自身の都合が悪い過去は自伝にほとんど書かれてないんですよね……。萩尾氏の自伝が真実ならば。
盗作、といっても元ネタがかぶっていたら、漫画作品の設定が同じ「男子寄宿学校」となってもまったく不思議ではないですし。その元ネタ提供していたのが、萩尾氏の友人である増山氏で、その増山氏は竹宮氏と少年愛ネタで意気投合した経緯が書かれています。
そんな事実にも頭が回らないぐらい、スランプに陥っていたともいえますが……。
盗作疑惑後、絶縁宣言+もう忘れてくれ、と告げられた萩尾氏は、ショックのあまり記憶から消すことにしました。そして過去の出来事を心の奥に封印して、沈黙を通されたのです。なぜ反論しなかったのか、という読後感は私もありましたが、そもそも争い事が苦手な方ですし、友人と思っていた相手からの裏切りが、非常にショックだったようです。その後、体調を崩し、イギリスへ留学されます。
それでも漫画を描き続けられたのは、もし竹宮氏に屈してしまうと、ずっと彼女を恨んでしまうから、とおっしゃってます。あの人のせいで漫画を描けなくなった、と。
興味深いのは、同じ出来事の自伝なのに、書き手が違うと見え方がいろいろ異なること。
ひたすらマイペースに漫画を描いている萩尾氏とは対照的に、竹宮氏は少女漫画革命を起こそうと躍起になっていました。大泉の長屋を訪れる若き少女漫画家たちを集め、あれこれ議論した日々。傍らには相棒となった増山氏がいつもいて、彼女のアイデア力や博識さがないと作品が描けないほど、竹宮氏は依存していたようです。
そんな両氏に介入することなく、ひたすら萩尾氏は漫画を描き、担当編集Y氏からなんとかポーの一族の連載をこぎつけます。萩尾氏は「編集者の期待の星で、人気があったのは竹宮さん。私はいつ、仕事の依頼がなくなるのか不安だった。作品に華がないのが悩みだった」と、何度か自伝に書いています。
反対に竹宮氏の自伝だと「期待されているのは個性的な作品を描ける萩尾さんで、私はいつ打ち切られてもおかしくない状態だった。描きたいものが描けなくて苦しい(風と木の詩のこと)」とあります。だから嫉妬したとも。
あと少年愛――のちにJUNEややおい、今はボーイズ・ラブ――への熱意が、あまりにもお二人に温度差がありすぎて、これも決裂した大きな要因でしょう。
少女漫画革命を起こそうとした竹宮氏と増山氏は、少年愛こそライフワークと、躍起になっている反面、萩尾氏は自伝で「少年愛の良さはわからないが、少女ではなく少年を主人公にすると、自由に描けることに気がついた」と書かれています。
そんな少年愛の良さに共感していなかったはずの萩尾氏が、少年寄宿学校を舞台にした作品を先に発表したことで、竹宮氏は「裏切り者」と憤ったのでは、とあります。そもそも同じ舞台の作品である「風と木の詩」のアイデアスケッチ。それを見た萩尾氏がそれを真似た=盗作、と思い込んだのだろう、と。
……そもそもそのアイデアスケッチは、増山氏が小学生のときから描いた漫画が元ネタだったというのに。
そんなこんなで決裂後、萩尾氏は竹宮氏と一切、連絡はもちろん、彼女の作品にはまったく目を通していません。「少年の名はジルベール」が自宅に送りつけられたときでさえ、アシスタントに読んでもらい、ご自身は簡単に内容を聞いただけでした。
その経緯から、竹宮氏は和解したいようですが、賛否両論確実な自伝を出されてまで拒絶しているのですから、生涯、仲直りされる可能性はないでしょう……。
萩尾氏が長い長い沈黙を破ったのは、「少年の名はジルベール」出版後、マスコミや出版社から「大泉サロン」のことをドラマや漫画、ドキュメントにしたい、という依頼がひっきりなしにあるからだそうです。「なぜいつまでも和解しないのか」と問われることが、苦痛だから。
両者の自伝を読んで思ったのは、女子グループ特有の揉め事と最初に書きました。
大御所お二人と比べるのもおこがましいかもしれませんが、私も一応、女子ですので、グループ内のいざこざを何度か経験しています。
いわゆるリーダータイプの女性(ここでは竹宮氏)と、おとなしいタイプの女性(ここでは萩尾氏)の相性って、あまりいいとは言えないんですよね…………(汗)
行動力があって発言力もあって物怖じしないタイプは、無意識に他者をコントロールすることに長けていて、自分の思い通りにならない相手だと判断したとたん、冷酷なまでに見捨てます。自分は悪者になりたくないから、あれこれ適当に理由をつけて。(ここでは盗作疑惑)。
おとなしいマイペースタイプの女性は、リーダータイプのご機嫌取りをしない(というかできない)んで、余計、仲がこじれやすいという………………要するに面倒くさい。
以上、できるだけ贔屓をいれず、客観的な感想を心がけましたが、私もどちらかといえばおとなしい派なんで、どうしても共感してしまうのは、萩尾氏になってしまうというか。
いっぽう、竹宮氏のように行動力のあるリーダータイプは、沈黙して反論しないほうが子供じみている、と思うかもしれませんね。
どちらが正しいのか正しくないのか。私には判断は難しいです。
8/22に追記。
アマゾンレビューのなかに何度削除されてもしつこく萩尾氏を批判しているコメントがあります。超長文で執念深いから薄気味悪いほど。この人、萩尾氏に個人的な恨みがあるのでしょうか???
そして「役に立った」の数も1000を軽く超えていて、同じ気持ちの読者がこんなにいるのかとぞっとしました。
……なぜ怖くなったのかって???
まるで私のようなタイプの人間――内向的でうまくコミュニケーションがとれない――のを、親の仇を討つかのごとく責めているからです。あと独身であるのは無責任で冷徹だからともあります。これこそヘイトスピーチそのものですよね?
既婚者=愛情あふれる一人前の人間、とでも信じているのでしょうか。
当ブログの過去記事にも投稿していますが、ひどいパワハラをしている還暦お局社員は既婚者です。過去に同じようなパワハラしたお局たち、ほとんど既婚者でしたけど!?
独身=出来損ないの惨めな人間、とおっしゃりたいようですが。他の記事で何度か書いているとおり、性格が悪かろうが良かろうが恋愛できる人は結婚もできます。中身が性悪でも見た目がかわいければ、馬鹿な男たちはだまされるのです。こいつら色気と二面性がありますから。
ほかにも批判的なレビューありますけど、内向的な人間ってだから嫌われるのかな、と思いました。私、何もしていないのに、キツイ女性、ときには威張った男性からも一方的に嫌がらせされます。子供のときから中年になってもずっと……。
うまく自分を出して、相手の言いたいことを察知して立ち回ることが処世術――つまり空気が読めないタイプは嫌われるみたいですね。おとなしい=自分のことしか考えていない卑怯で子供じみた人間、と解釈しました。大人だったらうまく会話しながら問題解決するものだそうですから。
わかってはいたけど、非難轟々のレビュー読んでしまうと人間不審がさらにひどくなりそうです……。でもできないものはできないんです。それ訴えても説教されるだけでなかなか理解されないのが辛いです。
参考までに一部のみ引用。そのうち削除されるから。(それでもしつこくまた投稿する粘着さが怖いです)
自分は「裏表のない人間だ」という言明でこそあれ、母親への的確な評価にはなっていない。
と言うのも、萩尾の母親が示したような態度とは『本音と建前という会話のシステム』といったことではなく「記憶の改ざんによる、葛藤の解除」でしかないからだ。
つまり、萩尾の母親には、自分が「二枚舌」を使っているという自覚はない。そうではなく「じつは、私は昔から、心の底では、娘の才能を信じていたのよ。でも、そんなものでは食ってはいけないと思っていたから、彼女のために、あえて厳しく当たったのよ」と半ば「本気で思い込んでいる」のであり、こうした「心理的な自己矛盾(心理的葛藤)からの自己回復」というのは、誰にでも、多かれ少なかれ備わっている「脳科学的(合理化)機能」であり、萩尾の方に特殊な脳障害でもないかぎりは、萩尾だって、同じようなことを必ずやっているはずで、ただ「自分のことには、都合よく鈍感」なだけなのである。
ともあれ、萩尾のここでの母親への態度は、そのまま竹宮と増山に向けられたものでもある。と言うか、むしろ「本命」はそちらなのだ。
つまり「なぜ、あなたたちは、過去の事実は事実として、素直に認めようとしないのか。そして、正直に謝罪しようとはしないのか。結局は、あなた方は、姑息な本音とご立派な建前を使い分ける、つまらない人間だってことよね。だから、事実を事実だと認められず、過去を改ざんしようとするのよ、卑怯なことに」と、こう「倫理的」に責めているのである。
だが、これは本当の意味での「人間的な倫理」ではなく、「人間的倫理」の「仮面」を被った「ドス黒い復讐の念」、自分を傷つけた者への「何度生まれ変わってでも、借りは返す」「責任は取ってもらう」という「怨念の妄執」でしかない。
萩尾望都は、ずっと「独身」である。これは、私も同じだから言うのであるが、「人に、借りを作りたくない」「他人の為に、自分の自由を犠牲にしたくない」という認識をはっきりと持っている冷徹な人間は、いきおいで「結婚」をしたり、愛欲に流されて、うっかり「子供」を作ったりはできないものだ。
そもそも、自分が生きることで手一杯なのに、どうして「他人」の「責任」まで担えよう。
一一そんなふうに考える人間は、おのずと「独身者」たらざるを得ない。「自由」の代償として、「余分な責任」は負わない、という選択である。
無論、そうした冷徹さ、つまり私がここで萩尾望都を裁いているような冷徹さが、時には必要なのだけれど、それが人間のすべてではないということが、萩尾望都にはわかっていない。萩尾は冷徹に、表情も変えず「私は当たり前のことを当たり前に要求しているだけでしょう。それのどこがいけないの?」といった顔をするだろうが、その顔が「怖い」のである。「非人間」的なのだ。
なぜ、萩尾望都は、かつての「竹宮惠子と増山法恵」を許せないのだろう。どうして「小娘たちの過ち」を許せないのか。
それは、萩尾望都という人が、いつまでも「少女」のままでいられるつもりの「吸血鬼」気取りだからである。
↑これでも1割未満の引用。こういう粘着気質な人に狙われて、ずっと前にサイト休止をしたことを思い出します。こういう人って認知がくるっているのか、こちらが何を書いても一方的に悪者に仕立て上げて被害者ぶり、匿名であちらこちらで陰口を叩くんで非常にたちが悪いです。
そもそもこちらはなんにもしていないのに、あるとき突然、一方的に非難轟々の文章送りつけるのが意味不明すぎます。私がいったい、あなたに何をした?そもそもあなたを知らないんですけど?それとも別の名前でどこかで接触ありました?という。
萩尾氏たちのような有名な方が羨ましいと思う反面、頭おかしい人からもターゲットにされる可能性と危険性が大きいのが気の毒です。一種のストーカーですよね、これ……。
コメント
コメントを投稿